千昌夫さんは、「星影のワルツ」や「北国の春」など、数々の大ヒット曲を生み出し、紅白歌合戦にも出演した人気演歌歌手です。
1977年にリリースされた「北国の春」は、ミリオンセラーを達成し、第21回日本レコード大賞でロングセラー賞を受賞しました。
この功績により、千さんは演歌界にその名を刻むことになります。
彼は「歌う不動産王」とも呼ばれ、歌手と実業家という異なる道を歩んだことで知られています。
また、千さんは2回結婚歴があり、2回とも奥さんはアメリカ人です。
そんな千昌夫さんの奥さんについて調べてみました。
目次
千昌夫の現在の奥さんはアマンダ・スタナード
千昌夫さんは1992年45歳のときに、アメリカ人のアマンダ・スタナードさんと再婚しています。
事実婚が始まったのは1988年と言われています。アマンダさんとの関係は、千昌夫さんが前妻と婚姻中に発覚し、それが離婚の要因となりました。
画像出典元:アメリカで10倍うまく立ち回る方法
アマンダは元ダンサーで18歳年下
アマンダ・スタナードさんは元ダンサーで、二人の年齢差は18歳でした。
結構年が離れていますね。
千昌夫さんが45歳の時の結婚だったので、アマンダさんは27歳だったのですね…若いっ!
馴れ初め
千昌夫さんとアマンダさんの馴れ初めについては、調べましたがわかりませんでした。
わかり次第追記したいと思います。
アマンダとの出会いから再婚までのエピソード
アマンダさんとの交際がマスコミに取り上げられた際、千昌夫さんは関係を隠すため、ハワイの別荘を利用していたようです。
離婚成立後も、アマンダさんを公には連れてこず、その別荘に住まわせていたという背景があります。
外国にいれば、記者達が追ってくるのも難しそうですね。
千昌夫とアマンダが選んだ家族の形:未入籍期間の背景
千昌夫さんとアマンダ・スタナードさんは長い間、入籍せずに過ごしていました。
1989年に長女が生まれた時も、まだ籍を入れていない状態でした。
千昌夫さんは、過去の結婚が失敗に終わった経験から、再婚に慎重だったと言われています。
その後、3人目の子供が1992年に誕生し、そのタイミングで正式に結婚し、ハワイで挙式を行いました。
千昌夫と奥さんは東京とハワイの別居婚
アマンダさんはその後、子供たちと一緒にハワイに移住し、千昌夫さんは日本に単身で残ることになりました。
現在も千昌夫さんは日本で生活しており、二人は30年以上別々に暮らしている状態が続いています。
千昌夫とアマンダの間に誕生した4人の子供
再婚相手のアマンダ・スタナードさんとの間には、2男2女の4人のお子さんがいます。
千昌夫さんも若い時はイケメンでしたし、奥さんが美人なので、きっとお子さん達も美形なのでしょう…
長女ナターシャの現在:美貌とそのキャリア
長女:ナターシャさんは、1989年に生まれました。
ナターシャさんは一般人で、2017年末に28歳でアメリカ人と結婚しハワイで挙式を行いました。
画像出典元:X
結婚式の時に千昌夫さんが共にバージンロードを歩みました。
「心の奥底から込み上げてくる感動に胸を打たれた」と、その時の感激を語っています。
次女ダニエラのモデルとしての活躍
次女:ダニエラさんは、1991年に産まれました。
2009年には18歳でモデルとしてデビューしました。
身長172cmの抜群のスタイルと美貌で注目を集め、ファッション誌「GLAMOROUS」で活動を開始してました。
これはその記者会見の時で、お母様と一緒の写真です。母娘ともに美人さんですね。
ダニエラさんは幼少期からハワイで育ったため、日本語はほとんど話せませんが、モデルデビューを機に日本語の勉強を始めたそうです。
唯一話せる日本語は「オツカレサマデシタ」だそうです。
父・千昌夫さんは、歌手としての活動も期待していたものの、ダニエラさんはモデル業を続ける意向を示しており、将来的には日本でのキャリアを積むことを目指しているようです。
現在の活動はわかっておりません。ハワイのオアフ島に在住しているようです。
長男アレキサンダー太郎の現在と職業
長男:アレキサンダー太郎さんは、1992年に産まれました。
アメリカ名と日本名が合わさっている珍しいお名前なんですね。
職業などを調べましたが、一般の方で詳しいことはわかっておりません。
わかり次第追記していきたいと思います。
次男ローレンス健樹の病との闘いとハワイ移住の理由
次男:ローレンス健樹さんは、1993年に産まれました。
ローレンス健樹さんは、生まれてすぐに白血病を患い、アマンダさんは彼の治療を優先して1996年にハワイへ子供たちと移住することを決意しました。
彼がわずか3歳の頃にハワイに渡ったことになります。
その後、治療が続けられ、白血病との戦いが続きましたが、現在の具体的な健康状態については公にされておらず、詳細は不明です。
ローレンス健樹さんが元気で過ごしていることを祈るばかりです。
千昌夫の最初の奥さんはジョーン・シェパード
千昌夫さんの初婚のお相手もアメリカ人で、ジョーン・シェパードさんという3歳年上の方です。
1972年千昌夫さんが25歳頃に結婚しました。
元奥さんはタレントで歌手
ジョーン・シェパードさんは、1944年9月5日生まれのアメリカ人歌手であり、タレントとしても日本で成功を収めた人物です。
画像出典元:https://ameblo.jp/3104016/entry-12353423670.html
1960年代には、グレン・ミラー・オーケストラの専属歌手としてアメリカのショービジネス界で活躍していました。
彼女が日本で大きな注目を集めたのは、1971年にリリースしたシングル「サマー・クリエーション(夏の日の出逢い)」が大ヒットしたことからです。
これをきっかけに、日本でも知られる存在となりました。
その他にも「バルコニーに座って/砂に書いたラブレター」や「白い想い出/夕陽が沈む」など、数多くのシングルを日本でリリースし、歌手としての活動を続けました。
さらに、1978年から1981年まで人気テレビ番組『新婚さんいらっしゃい!』のアシスタント司会を務め、幅広い分野で活躍しました。
未だに放映されている人気番組なので、アシスタントを務めていたことにびっくりです。
馴れ初め
ジョーン・シェパードさんと千昌夫さんの出会いは、彼女がオーケストラの専属歌手として来日した際に、テレビ番組で共演したことがきっかけでした。
千昌夫さんはそのときにジョーンさんに強く惹かれ、一目惚れをしてしまいました。
その後、千昌夫さんは彼女に対して積極的にアプローチを続け、やがて二人は結婚に至ったというエピソードがあります。
オシドリ夫婦で有名!共演作品は?
千昌夫さんと元妻のジョーン・シェパードさんは、芸能界でも特に仲の良い夫婦として広く知られ、“芸能界一のおしどり夫婦”と呼ばれていました。
流暢な日本語を話すジョーンさんと東北の方言で話す千昌夫さんのコンビが面白いと話題だったようです。
複数の大手企業のテレビCMに夫婦で共演し、松下電器(現在のパナソニック)のテレビ「パナカラー・クイントリックス」や、いすゞ自動車の「アスカ」、さらに象印「マホービン」など、仲の良い夫婦という印象がついたのかもしれません。
特に注目されたのが、松下電器の「クイントリックス」のCMです。
このCMで、ジョーンさんが発した「イワテケーン(岩手県)」というセリフが話題となり、流行語にまでなりました。
このユーモアと親しみやすいキャッチフレーズが、製品の大ヒットに寄与したとも言われています。
結婚式はどこで?
こんなXを見つけました。
画像出典元:X
調べてみたところ、宮城県仙台市にある「グレースリッジカントリークラブ」なんではないかと、思いました。
気になったので、管理人が電話して聞いてみました。
ここは、たしかに千昌夫さんがバブルの時代にお金をかけて作ったゴルフ場だそうです。
口コミなどを拝見すると「お城みたい」との声が数多くあがっていました。
スタッフの方によると、昔は結婚式もやっていたそうですが、現在は結婚式はやっていないそうです。
レストランも東日本大震災の影響でダメージを受け、閉鎖箇所があり縮小して営業しているそうです。
スタッフの方は若い方で「千昌夫さんがご自身の結婚式をここでやったかはわからない」と言っていましたので、真相はわかりません。
グレースリッジカントリークラブの写真があったので、ご紹介いたします。
画像出典元:れいのブログ
ゴルフ場というより、高級ホテルのような感じですね。
広尾の豪邸へ住んでいた
元奥さんが漬物を買いに行った時のエピソード
ジョーン・シェパードさんが、かつて千昌夫さんと結婚していた頃のエピソードとして、ある日の買い物の出来事が語られています。
彼女が漬物を買いに行った際、夫の千昌夫さんが「漬物」のことを岩手弁の訛りで「オスンコ」と発音していたため、ジョーンさんもそのまま「オスンコをください」と店員に伝えたそうです。
しかし、その発音に店員は戸惑い、「何を指しているのか理解できなかった」という微笑ましい逸話です。
このエピソードは、ジョーンさんが日本の文化や言葉に慣れ親しもうとする姿勢が垣間見えるものとして、多くの人々に愛されました。
また、千昌夫さんの地元訛りと夫婦の温かいやりとりが感じられるエピソードとして、長く記憶に残るものとなっています。
千昌夫は、金髪女性が好き?
昔も今も、芸能人が成功して金銭的に余裕ができると、ハワイなどで休暇を楽しむのはよくある話です。
千昌夫さんもその一人で、初めて訪れたハワイで、魅力的な金髪白人女性に声をかけたところ、英語で「日本人も中国人も好きじゃない」と冷たく断られたそうです。
この経験は彼の人生に大きな影響を与えたようで、岩手出身で外国への憧れが強かった彼は、「何くそ!」という思いで奮起し、その後、外国人女性に強く惹かれるようになったと言われています。
管理人が小学生の時、担任の先生が「東北の人は打たれ強くて、決めたことはやり遂げる気質がある。きっと寒い冬を耐えて暮らしているので、そういう強さが生まれたんじゃないか…」と話していたことを思い出しました。
2018年に週刊誌にツーショット写真を撮られた千さんですが、その日本人女性も金髪でしたね…
画像出典元:女性自身
現在、千さんは日本で単身赴任中ですが、スタイリストの女性とスシローデートを報道されてしまったのです。
その親密な女性が金髪に髪を染めていたので、「千昌夫さんは金髪女性が好きなのではないか…」という噂があります。
ちなみにスタイリストの方は交際を否定しているので、真相はわかりません。
千昌夫の元妻・ジョーン・シェパードとの離婚理由
1986年、千さんとアマンダ・スタナードさんとの交際が明るみに出たことが、ジョーンさんとの離婚の決定打となったようです。
二人は2年間の別居を経て、最終的に離婚が成立しました。
アマンダさんは、千さんがジョーンさんとの結婚中に浮気相手となった女性であることが広く知られています。
千昌夫とジョーン・シェパードの離婚劇の裏側
関係者のインタビューによると、千さんは少し常識から外れた大胆な人物だったそうです。
それに対して、ジョーンさんは育ちの良い落ち着いた女性で、非常に常識的な性格でした。
「二人の関係は、夫婦というよりも、まるで千さんが生徒でジョーンさんが先生のように見えることが多く、ジョーンさんの方が三つ年上だったことも影響していたのかもしれません。」と語っています。
千さんは彼女に対して非常に気を使っている印象があったそうです。
そんな時に、若くて甘えん坊なアマンダさんが現れ、千さんはその魅力にすぐに惹かれてしまったのです。
千さんから離婚の報告を受けた際、その関係者は「別れない方がいい」と伝えましたが、千さんの気持ちも理解できないわけではありませんでした。
慰謝料50億円は本当?実際の離婚条件とは
千昌夫さんとジョーンさんの離婚に関して、報道ではジョーンさんが千さんの財産を720億円と見積もり、その半額である360億円を求めたとされています。
しかし、実際には、千さんが保有していた1000億円とされる資産のうち、約80%が借金であったことが明らかとなりました。
最終的に、ジョーンさんが受け取ったのは、現金ではなく、広尾にあった夫婦で住んでいた豪邸の居住権でした。
この住居権を含めた総額が50億円相当とされています。
50億円ってすごいですね。芸能人の中で史上最高額の慰謝料だったそうです。
さすが「歌う不動産王」だと思いました。
家の居住権問題とジョーンのアメリカ帰国の詳細
しかし、2000年に千さんの会社が経営破綻したことで状況が一変します。
広尾の家が千さんの会社名義であったため、経営破綻に伴いジョーンさんはこの家から退去を余儀なくされ、最終的にはアメリカに帰国しました。
離婚後、ジョーンさんは当初慰謝料の一環として広尾の邸宅に住んでいましたが、千さんの事業破綻に巻き込まれ、住み続けることができなくなったのです。
この家屋の名義や破産に絡む問題が影響し、最終的に彼女はその生活の拠点を失うこととなりました。
広尾の家を離れた後、彼女は日本を去り、ハワイへと新たな生活を求めて移住しました。
その後はアメリカ人と再婚して、日本に住んでいるようです。
ジョーンが千昌夫に贈った最後の言葉
取材でレポーターから「千さんがもう少し頑張っていれば、広尾の家を手放すことはなかったのでは?」と質問された際、ジョーンさんはそれを遮るように語り始めました。
「それはわからないわ。これも人生の一部だから。千さんは何も悪くない。日本で過ごした36年間はとても幸せだったし、悪いことなんて一つもなかったわ。彼には頑張ってほしいし、金銭的な問題もきっと解決するわ」と、元夫への思いやり溢れるコメントを残しました。
千さんの愛人問題で離婚したのに、千さんに恨み言ひとつなく気遣う言葉をかけ、ジョーンさんは良い方だなぁ…と管理人は思いました。